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永田町町会

歴代町会長

町会長 遠藤 恒夫
町会長 遠藤 恒夫
初代 町会長 遠藤 恒夫 平成23年〜
永田町町会(永田町一丁目と統合)
 初代 遠藤 恒夫 : 平成23年〜
永田町二丁目町会
5代
遠藤 恒夫 : 平成18年〜23年
4代
加賀 昭人 : 平成17年〜18年
3代
加賀 孝徳 : 昭和55年〜平成17年
2代
荻原 拾三 : 昭和54年〜55年
初代
遠藤 政次郎 : 昭和33年〜54年
永田町二丁目睦会
初代
遠藤 政次郎 : 昭和25年から33年
 

お祭りも賑やかに
町会懇親旅行(沼津御用邸記念公園で)

町会の歩み

<連合町会創立50周年記念誌より転載>

 ※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。 

ちょうど二十年前の昭和六十一年に記念誌を発行するに当たり、加賀孝徳氏はすでに喜寿の齢を迎えていたが、御尊父の頃より町会の生き字引として「町会のあゆみ」に健筆を振るわれた。
 江戸の古地図に「永田馬場」とあり、昔、永田氏を称する三軒が並んであったことに因む地名とされるが、この永田町二丁目は、かつては江戸城の城内であった山王日枝神社の鎮座地でもある。江戸時代には、松江藩、二本松藩などの屋敷地であり、その後日枝前町、日枝神社境内が合併して、現在の町域が形成されている。明治までは、国会裏の坂(山王坂)の入口付近と、坂の中程に神社の鳥居があり、山王様の表参道とされ、四代家綱公造営の国宝社殿(昭和二十年五月の空襲で焼失)の周囲は、別当、神主、社僧、社家等、奉仕者の邸や、門前町が描かれている。維新の際の神社制度の改革により奉仕者は離れ、新しい住民を迎えたが、山王様は、明治天皇御東幸により、官幣大社の御社と尊崇されたことは宮元の住民の誇りでもあった。
 戦後の地名表示変更では、この伝統ある「永田町」の名称を「永田」としたいと区役所からの再三の要請にもかかわらず、譲らなかった結果、今日の町名が残った。さらに麹町、番町も、「麹一」や「三番」にならなくて本当によかったと思う。
 また、現在首相官邸、国会議事堂、衆参両議院会館、及び名門・日比谷高校(旧東京府立一中)も永田町二丁目にあって、町会には事務局として居住の方、神社寮の方が会員として、行事等に参加している。
 二十年程前から、官邸、日枝神社等周辺の永田町二丁目地区再開発計画が、当時の社会情勢の下で民話を加味して発企され、周辺道路・歩道の拡張、環境の整備が行なわれ、二・二六事件の舞台であり、戦後は山王ホテルであった跡地には山王パークタワーが、また外濠通りと神社を通すエスカレータ付きの赤坂山王階段などが新設され、地区はまったく一変した。その後、火災にあったホテルニュージャパン跡に高層のプルデンシャルタワーが建設され、かつては、日本料理史に燦然と輝く陶芸家としても非凡な才をみせた北小路魯山人の星が岡茶寮があった跡地に建てられたキャピトル東急ホテルも建替の計画もあり、今後もIT機器を駆使したビルの建替工事も一層進むことと思われる。

しかしながら人の住む町は、暮らしやすいことが最も大事な要件である。四十数年前の東京オリンピックのとき、日本橋を覆うように造られた高速道路も、人の利便のみを追求したものと付替が検討されると聞くが、当地区も長い貴重な伝統を護りつつ、地震、火災等の災害に強い町づくりをし、後世に伝えることが使命と信じている。