7代 | 南山 驤 | : 令和5年〜 |
6代 | 篠田 晴久 | : 平成29年〜令和5年 |
5代 |
山口 光弘 | : 平成10年〜28年 |
4代 |
南山 金太郎 | : 昭和39年〜平成10年 |
3代 |
高山 伊之三郎 | : 昭和31年〜39年 |
2代 |
吉田 聖一 | : 昭和30年〜31年 |
初代 |
高安 正利 | : 昭和25年〜30年 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
町会の思い出
昨年(二〇〇五年)は太平洋戦終結六十年の年であり、社会的にも話題となる年でありました。
月日の流れは誠に早いもので私共平河町二丁目町会でも、昭和二十年五月二十五日〜二十六日未明にかけてのB29爆撃機による無差別攻撃を受け一夜にして焼け野原と化し、家を失い防空壕での生活となりました。
その後、二十年八月十五日の終戦を迎えて焼け跡にバラックを建てての生活となるわけであります。当時、疎開をされていた人々も少しづつ地元に戻りはじめ、お互いの交流も始まり又深まりました。
その後、昭和二十二年、旧麹町区と旧神田区の合併による千代田区の誕生となるわけでありますが、当時の連合軍総司令部GHQの通達により、戦争に貢献した団体の活動の禁止と言うことにより、警防団及び在郷軍人会を始め町会活動もその一つでありました。
その後、昭和二十五年頃、団体活動の禁止の解除と共に自治会(後の町会)としての発足となるわけであります。
当時、何の娯楽も無い時代、日本人にとって唯一の楽しみであった祭の復活がありました。私共町会には、戦前からありました永田町の一部と隼町の一部を加えた三睦会という祭事を司る親睦会があり、会の再会と共に祭礼の復活となるわけであります。
当時、樽神輿を担ぎ、リヤカーに太鼓を乗せて山車を曳き、子ども達と共に楽しんだ事が夢のように思われます。
その後、先輩役員の皆様方の努力の結果、町会の発足となり、初代高安正利氏、二代目吉田聖一氏、三代目高山伊之三郎氏、四代目南山金太郎氏、五代目小生山口光弘と続き、数々の変遷を経て現在に至っております。
住宅の復興と共に、企業関係のビルの建設があり、現在の平河町二丁目町会となるわけであります。
住めば都という言葉がありますように地元を愛し又住み良い町として、後々の住民の皆様に残したいと思っております。