千代田区の西部に位置する。地域北部は九段北に接する。地域東部は皇居・千鳥ヶ淵に接し、これを境に北の丸公園に接する。地域南部は一番町に接する。地域西部は四番町に接する。
・東京メトロ有楽町線 市ヶ谷駅 |
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・都営新宿線 市ヶ谷駅 |
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・JR総武線 市ヶ谷駅 |
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・都バス(宿75)(都03)(橋63)麹町四丁目 |
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・番町学園通り |
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・内掘通り |
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・靖国通り |
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<由来板>
■設置年月日:平成16年3月19日
■所在地:三番町18
江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈(かいわい)には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂(おんまやだにさか)の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(うまや)(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端(ほりばた)近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政(かんせい)五年(1793)、塙保己一(はなわほきいち)が、この地に幕府の許可を得て和学講談所(わがくこうだんしょ)を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』という書物の編纂(へんさん)で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(むらたぞうろく)(のちの大村益次郎(おおむらますじろう))もこの地に蘭学(らんがく)の鳩居堂(きゅうきょどう)を開きました。さらに明治十年(1877)には、漢学者三島中洲(みしまちゅうしゅう)が二松学舎(にしょうがくしゃ)(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)などの華族(かぞく)や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊(れんごうかんたい)を率いた東郷平八郎(とうごうへいはちろう)も、明治十四年(1881)から昭和九年(1934)までの五十三年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥(げんすい)記念公園になり、四番町(よんばんちょう)との境の坂は「東郷坂(とうごうざか)」と命名されています。