7代 | 上村 友子 | : 令和5年〜 |
6代 |
田中 康博 | : 平成14年〜令和5年 |
5代 |
諸田 弘幸 | : 平成13年〜14年 |
4代 |
稲葉 稲太郎 | : 昭和60年〜平成13年 |
3代 |
鈴木 太平 | : 昭和41年〜60年 |
2代 |
加藤 信一 | : 昭和24年〜40年 三番町睦会 |
初代 |
廣瀬 松五郎 | : 昭和23年〜24年 三番町睦会 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
「番町にいて番町知らず」「問わぬは恥ぞ番町の道」と川柳に謳われるほど、かつて番町は複雑な町であったようです。これは、大名の上屋敷も含め、多くは大身の旗本屋敷が五百軒以上もあったという典型的な武家屋敷街であったこと。また徳川家康によって計画された古代条坊制を模したといわれる区画割とともに、江戸時代の町名は「裏」「表」「新道」「堀端」「土手」という名称を冠したりして、順序だてた町名配置になっていなかったことによるものだったからでしょう。
ちなみに現在の町域となる以前の「三番町」は、江戸時代と明治そして昭和で、その場所は大きく異なっています。江戸時代は、表・裏四番町(現九段南三・四丁目)と表六番町あたりをさしており、現在の靖国通りを三番丁通り、二七通りを表六番丁通りと称していました。明治十一年の「郡区町村編成法」が成立し、東京市麹町区三番町となった当時は、現在の九段北三・四丁目の一部と九段南三・四丁目一帯を三番町と称していました。その後、昭和八年の区画整理事業において、当時、麹町地区だけで五十の町会を数えていた町会の整理事業において、九段三・四町会が誕生し、三番町町会は表六番町、上六番町、新道・堀端壱番町を糾合して、現在の町域が成立したのです。
この三番町を語る時、まず有名な史実として「番町で目あき目くらに道をきき」と川柳にまで読まれた盲目の大学者塙保己一が二十四番地(現)に和学講談所を開き、かの「群書類従」「続群書類従」を編纂したことで、現在都の指定旧跡となっていることがあげられます。
さらに町会の最も誇りとするところは、かの有名な東郷平八郎元帥が明治十四年四月より昭和九年五月三十日に薨去されるまで、四十五年の永きに亘って当町会十八番地(現)にお住みになり、親しく町会員としてご交際を頂いていたことであります。
その後、邸跡は東郷元帥記念公園として永く元帥の遺徳を偲ぶよすがとし、当町会のみならず近隣各町会のレクリエーションの絶好の場所となっております。ちなみに当町会の山車は東郷元帥の人形を飾ってあります。その他千鳥ヶ淵戦没者墓苑(二番地)等数えあげれば限りないほどの名所も当町会にあります。(六十一年十月千代田区番町出張所地区連合町会創立三十周年記念誌より一部抜粋)
近年においては平成九年より現在まで毎年地域のふれあいとして麹町警察署の方々と三番町町会員との親睦としてソフトボール大会を開催しており、町会参加者は総合住宅の住民、企業、学校などの人達で、平成十八年は第十回と節目の年となり、年々参加者も増え、盛大に行なわれています。
昭和二十三年二月に「三番町睦会」が結成され、昭和二十四年五月に「三番町町会」と改名されてから今日に至るまで、私どもは先人の築かれた当町会をこれからも維持しつつ、安全・安心の街づくりに専心していく所存でございますので、皆様方のご指導、ご協力のほどよろしくお願い致します。