15代 | 吉岡 紀子 | : 令和5年6月〜 |
14代 | 曽根 健一 | : 令和元年6月〜令和5年6月 |
13代 |
小野寺 喬 | : 平成25年〜 |
12代 |
橋 昌治 | : 平成19年〜25年 |
11代 |
鶴田 光雄 | : 平成11年12月〜19年 |
(町会長代理) | 小野寺 喬 | : 平成11年5月〜12月 |
10代 |
渡辺 元二 | : 平成8年〜11年 |
9代 |
青木 稔 | : 平成2年〜8年 |
8代 |
石塚 恒男 | : 昭和59年〜平成2年 |
7代 |
伊藤 弘 | : 昭和53年〜59年 |
6代 |
大塚 孝吉 | : 昭和39年〜53年 |
5代 |
小谷 桂一 | : 昭和34年〜39年 |
4代 |
鈴木 重毅 | : 昭和31年〜34年 |
3代 |
村瀬 清 | : 昭和22年〜31年 ※町会名:有楽町振興会 |
2代 |
井上 信 | : 昭和13年4月〜終戦 ※町会名:有楽町町会 |
初代 |
渡辺 亀次郎 金光 庸夫 加藤 芳太郎 |
: 昭和8年〜13年 有一会 : 昭和8年〜13年 有二会 : 昭和8年〜13年 有楽会 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
有楽町町会は、昭和八年九月結成以来、各官庁の御指導のもと歴代役員の努力と多年に亘る町会員の皆様の御支援御協力のお蔭で、今年七十二周年を迎えました。顧みますと戦前戦中戦後と、幾多の激動苦難を乗越えた先人の苦労が偲ばれます。戦後の荒廃から五十数年、多くの先人は概に去り、現在の居住者は僅かとなっています。地域の発展は生活環境を変えました。
町会の地域は、JRの高架路線と晴海通りが交差し、町の街区が四つに分れている関係で 商店街としての導線がありませんが、それぞれの特色があり現在の核となってます。有楽町駅を中心に、東南部地域は交通会館、西武、阪急の百貨店や映画館、味自慢の飲食店、特に工事中の駅前再開発ビルは丸井百貨店と高層のオフィスビルに。有楽町は集客数で格段の街となります。
また、西部地域は、東宝本社を始め映画演劇のメッカとして君臨し帝国ホテルや各官庁街へと通じています。北部地域は、現代経営路線のビックカメラを始め丸の内オフィス商店街、中通りへと通じて大いに期待されます。戦中戦後の建物は、今や高層ビルに変貌を余儀無くされつつあります。
有楽町は居住する住民は極端に少なく、企業会社の社員と共に知恵を出し、協力し合い、町会の行事をはじめ区役所、警察署、消防署、保健所等の行事にも参加してます。
年間を通じての主な行事は
一月の新年名刺交換会(豪華な景品で好評です)、二月の有楽稲荷神社の初午祭(甘酒を通行人に振舞う)、五月の町会の通常総会(予算・決算の審議をする)、六月の日枝神社大祭(祭壇を飾りお迎えする)、九月の町会リクリエーション(東京湾ディナークルーズ)、十二月の反省納会
<その他>
毎月二回の地域環境改善ポイステ運動に参加、春秋の交通安全運動、防犯生活安全運動、火災予防運動
有楽稲荷神社由来記
当社は永井飛騨守が天下泰平と子孫繁栄を祈念して安政六年に創立したものであります。社の傍らにある手水鉢は萬延元庚申年八月に駒野四郎兵衛藤原里知、佐竹源治源義道、千葉脩二宗克、土屋多蔵源昌大、小川岩蔵源富行、谷本重藤原長徳、井口岩五郎貞正、清水量蔵藤原吉利の八名が奉納した銘があり、当時から非常に信仰が篤かったことが偲ばれます。
明治維新後は町制の変革によって稲荷神社もわずかにその跡形を止めるばかりでしたが、明治四十一年東京市電気局有楽町変電所が設けられたとき祠堂も改修して町内氏子と共に御祈りして来ました。
大正十二年九月一日の関東大震災の際にも周囲は皆延焼したにも拘わらず、独り当地は災害を免れました。
昭和八年一月変電所の復興を機会に盛大な鎮座祭を行なって以来、毎年二月初午には大祭を行なっております。昭和四八年九月有楽町電気ビルの新築に伴ない、一時赤坂日枝神社に遷座されましたが昭和五十四年二月再びこの地に復座いたしました。 ここにその由緒の概略を延べ伝える所以であります。