7代 |
小林 武彦 | : 令和4年〜 |
代行 |
小林 武彦 | : 令和3年〜令和4年 |
6代 |
笠井 清純 | : 平成17年〜令和3年 |
5代 |
内田 進久 | : 平成4年〜17年 |
4代 |
中村 俊一 | : 昭和59年〜平成4年 |
3代 |
桜井 潔 | : 昭和45年〜59年 |
2代 |
石坂 清重 | : 昭和39年〜45年 |
初代 |
小菅 長四郎 | : 昭和29年〜39年 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
麹町四丁目の町域は、昭和九年の東京市政五十周年の記念事業として行われた町会整備事業として麹町五丁目の一部、麹町六丁目、麹町七丁目と元園町を糾合して現在の町域となり、垣見八郎右衛門氏(麹町区議・東京市会議員・麹町銀行発起人)が会長に就任されました。
戦後、再び力強く復興へと歩み始めた町会の先人たちの思いは「日赤奉仕団」の活動を通じて昭和二十四年、民主組織である「福四会」へと結実し、ポツダム政令廃止にともない、日枝神社の祭礼が復活した翌々年初代会長小菅長四郎氏のご尽力により昭和二十九年四月民主的な基礎的自治組織として麹町四丁目町会が発足いたしました。
その後、町会は相互扶助の精神とともに「復興・街づくり」へと、高度経済成長の波とともに邁進していくこととなります。昭和三十九年の東京オリンピックを境に、国道二十号線の道路拡幅、昭和四十九年の地下鉄有楽町線「銀座−池袋間」開通でビル化が進展し、麹町四丁目界隈はオフィス街へと変貌して行きます。その後、時代は高度経済成長からバブル経済へと移行し、多くの町会員がこの地を去ることになりますが、昭和六十年には八番地再開発協議会が設立され、平成四年九月に「クリスタル・シティ」として落成をみることとなり一部の町会員が再び戻ってまいりました。
都市は生き物であり東京では百年前の建物ですら見つけ出すことが難しいといわれますが、都市の記憶とともに、その地に明確に刻印されたものも残されています。麹町四丁目一番地の角に建つ三菱東京UFJ銀行は明治二十二年に設立された麹町銀行であり、江戸時代は五色刷りの切絵図の版元として有名であた尾張屋清七の金麟堂があった地です。プリンス通り(かつての大横町)を入った角には今から二百二十年ほど前の天明年間に伏見稲荷から勧請された豊栄稲荷が今も祀られております。
深いことの喩えを「麹町の井戸」と言われたようですが、旗本屋敷の井戸を始め町屋の井戸の分布密度はかなり高かったと言われております。井戸といえば大震災の折、水を求めて麹町に集まって来た人に開放した井戸が「尚泉水」と命名され、今も二番地泉商事ビル前に、碑とともに残されております。
江戸の頃、麹町「岩城枡屋」と並び称される呉服商「伊勢八」御三家御用菓子舗「豊福」「亀沢」など高級商店街を成し、明治に入り「田中銀行」「麹町銀行」等の個人銀行が居並び、日本最初の女子薬学校「明治薬科大学」を創設した恩田重信邸が七番地に、その裏手には二頭馬車が出入りした山内侯爵邸(現参議院議員宿舎)がありました。昭和に入って雑誌「少女の友」の挿絵で一躍有名になった中原淳一のグツズ店「ひまわりや」が一番地に、昨年襲名披露を行った中村勘三郎が先代とともに過ごした居宅が五番地にありました。
江戸開闢以来の古い町名とともに歴史を刻んで来た麹町四丁目町会。人が行き交い、時代時代に光芒を放った先輩諸氏の町会に対する篤き思いに感謝の念を奉じ、今後は、先輩諸氏が守り育んできた「人と人とのつながり」を大切にし、再び「人が輝く町づくり」へと歩を進めてまいります。