9代 | 松寿 庶 | : 平成26年〜 |
8代 |
佐伯 正人 | : 平成25年〜26年 |
7代 |
山内 浩徳 | : 平成24年〜25年 |
6代 |
瀬戸 幸司 | : 平成23年〜24年 |
5代 |
水元 潔 | : 平成22年〜23年 |
4代 |
川田 勝啓 | : 平成3年〜22年 |
3代 |
須丹礼アーネスト | : 昭和48年〜平成3年 |
2代 |
平元 敏雄 | : 昭和38年〜48年 |
初代 |
柴田 武治 | : 就任時不明〜昭和38年 |
※昭和42年4月 霞ヶ関から霞が関に改名 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
近年、この地区が大きく様変わりしたのは、何といっても東京オリンピックである。それ迄三年町町会と称した当処も、オリンピック道路と当時いわれた百米通り(現六本木通り)に分断された。この通りは地下自動車高速道(羽田空港を結ぶ)、地上は一般道。当時としては大変珍しく東京での自動車高速道のはしりである。この土地は衆参議院の速記学校があり、竹薮が多く、春になればウグイスがかならずどこともなく(多分皇居からであろう)やって来てその美声をきかせてくれた。そのためか幅のせまい道(四米)が残っているが、昔からの本通りで「鴬谷通り」とも称せられ、議員さん達の別邸が数多くあった。外堀通りは砂利道、都電が通っており、道の幅員は現在の半分、築地の市場へ行く荷馬車が通り、その馬の糞が乾いて空中に舞い上がり、町会はその掃除に大変であった。築地市場の所長のところに行き、「オリンピック開催中は外国人も来るし、何とかならないか」と交渉したところ、築地側も「善処しましょう」と快く引き受けてくれた。以上の如くこの町は都心には珍しくのどかな静かな町であった。当グローリアビル(当時は都内では珍しい鉄筋コンクリート造の小さなビル)の六階建の屋上から、南東には東京湾の船等が見え、西北には何とJR渋谷駅が見えた。来客がうそだというので、軍用の双眼鏡で見さした。駅名もホームの人も電車も見えた(渋谷間さえぎるビルはない)。この土地の大手銀行もこの地区の発展を見抜けず、この地区全部の銀行がグローリアビル建設の融資を断わったくらいである。
第二期といえるのが、超高層ビル「霞が関ビル」の建築からである。華山会館(立派なシャンデリアの下でパーティーが行われていた)等の跡地に建てられた、地震国日本では最初の高層ビルであった。私も鉄骨が出来上がった時、そのガイコツ時に屋上に登ったが、その眺望は一大パノラマの絶景である。但し足もとがすくむ。その目の前の鉄骨の上を鳶職の人達がすいすいと何事もないかの如く歩いている。建築会社の大卒の新入社員達の研修で「今日は建築現場の見学だ」とだけ言われ、工事用エレベーターに乗せられ(ガイ骨だけの時)屋上で外に出ろと言われたが、皆エレベーターの外に出られなかったと聞く。三十六階完成時は初めての人間の月面着陸時であった。虎ノ門方面の同ビル窓は全面窓に室内電燈で字を書き、「人類月面着陸成功」と書かれ、これは新橋駅からも望められた。人々は大いに集まりこの地区が世間に注目され出し、多くの高層ビルが出来はじめた。そしてビル街にと発展して行くが、それと平行して住民も少なくなってきた。
第三期は、現在工事中の「霞が関都市再生プロジェクト霞が関R7プロジェクト」である。平成十九年九月に建物完成、平成四六年十二月に付帯事業が終了する予定である。霞が関ビルより虎ノ門交差点にかけてである。事業関係者は〈国〉国土交通省、文部科学省、会計検査院、金融庁、〈施工者〉独立行政法人都市再生機構。〈民間地権者〉(財)霞山会、住友不動産(株)。「PFI事業」とも称し、半官半民で行なう日本でも珍しい事業である(PRIVATE FINANCE
INITIATIVE)。この完成により、この地区も良い方向に多いに様変わりするものと確信する。皆様もこの事業がすべて完成まで生きぬいて、ぜひ見届けてほしい。
なお、私と同じく当初より献身的に町会に尽された伊藤ビルの伊藤治子さんの協力も忘れることが出来ない。記して感謝する次第である。