平河町一丁目町会 | ||
11代 | 吉田 武久 | : 令和5年~ |
10代 | 関口 彌壽雄 | : 平成26年~令和5年 |
9代 |
小池 源朗 | : 平成20年~26年 |
8代 |
大平 秀男 | : 平成16年~20年 |
7代 |
和栗 繁 | : 平成8年~16年 |
6代 |
吉田 一彦 | : 昭和53年~平成8年 |
5代 |
西村 宏一 | : 昭和36年~53年 |
4代 |
和田 平太郎 | : 昭和31年~36年 |
平一自治会 | ||
3代 |
栗原 銀次郎 | : 昭和21年~31年 |
2代 |
井上 安次郎 | : 昭和11年~20年 |
初代 |
柳川 義雄 | : 昭和9年~11年 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
平河町の地名は麹町地区で最も古いもので太田道濯公の時代には平川河口の城下町として栄え平川村と呼ばれ現在の平川門付近だと云われている。この地に平川天神社が江戸城内より移され慶長十一年江戸城増築により天神社を現在の地に遷座し、それと同時に移動した門前町が現在の平川町である。平川が平河となった経緯は分らないが平河天神社に因み町名が附せられたと思う。
平河町は慶応三年当時、麹町平河町と呼ばれ一丁目より三丁目まであり、明治になり四丁目と元平河町ができ、五丁目と六丁目が明治五年に生まれ、明治三十八年日露戦争の時に平一同盟会が結成されている。明治四十四年四月麹町区公民会が発足しているが、これが現在の連合町会のような団体と思われる。平河町は元平河町、平河町一丁目より六丁目までの七町会があったが、昭和九年七月区画整理により元平河町、平河町一丁目より三丁目までの各町を平河町一丁目町会とし、四丁目より六丁目の各町を平河町二丁目町会として整理統合され新町会として発足し、その時に麹町平河町の冠が取れて平河町となる。昭和五十九年七月には平河町一丁目町会五十周年記念式典を赤坂プリンスホテルにて盛大に行なった。近年は町内もビル化が進み大きく変りつつある。
平河町一帯は町屋とされていた延亨二年に龍眼寺が寺社奉行支配より町方に編入されたため町人の住いが多くなった。龍眼寺は天神社の近くにあったとの事だが所在地は不明である。この付近には忠臣蔵でお馴染みの赤穂の浪人達がみ、身分をかくして討入を待っていた。平河天神前は山の手随一の盛り場で参詣人を目当ての店が多く相当の繁栄ぶりであった。私の子供の頃には神社の裏側の道筋に毎月二十四、二十五日の夜には夜店が沢山出店して北は麹町通り、西は紀尾井町まで一丁目と二丁目の境の通には植木市が出た。昔はキリスト教会があった今の厚生会館の所まで市が出ていた事を覚えている。神社の境内も広く相撲大会、映画会などが行われ、子供達も大勢いて賑やかであった。町の古老の話によると十二月には餅、乾点、羽子板を売る大市が立ち麹町の名物であったと伝え聞いている。
一番地を出発地点として、麹町二丁目との接点の交差点を西に向うと「南国大平記」に出てくる「ももんじ屋」と呼ばれる獣肉店の元祖と見られる店があり、大変な繁盛で看板に紅葉(鹿)牡丹(猪)などが描かれていた。紀尾井町に向かって左側の、現在の相互第六ビルには西洋料理店として有名な宝亭があった。
麹町通りより永田町方面へ北より南に下がる坂は貝坂というが、昔この付近の地下より貝殻が多く掘り出されたので貝塚が立っていた。その貝坂の今の五番地(昔は三丁目十八番地)には「荒城の月」で有名な滝廉太郎が従兄の滝大吉の家に住んでいた。幕末には蘭学者高野長英の学塾もあった。随筆家の寺田寅彦も平河町の生まれである。
坂の下平河町二丁目には杉邸があり、その下を左に曲がり東に向うと、今の浅沼商会のあたりは、昔、馬場があったという。その馬場を造る時にそこの住人が立退かされ、現在の秋葉原に飛地を与えられ平河町の住人として移り住む事になり、名主が毎月神田平河町まで人別調べなど町政を見に出掛けて行った。その名残りが、今の神田平河町の名で現存している。平河町界隈の移り変りを綴ってみた。