8代
|
清水 茂 | : 平成30年 |
7代
|
岩澤 保夫 | : 平成29年~平成30年 |
6代 |
奥田 英雄 | : 平成17年〜平成29年 |
5代 |
湯藤 新 | : 平成6年〜17年 |
4代 |
浅井 得二 | : 昭和30年〜平成6年 |
3代 |
比原 松熊 | : 昭和21年〜30年 |
2代 |
竹村 常吉 | |
初代 |
浅井 繁次 | |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
町会のあゆみ
江戸城内堀に面したこの界隈には、徳川家康が江戸にやってきた当初、鷹匠たちの屋敷がありました。鷹匠とは、タカやハヤブサを飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。つまり、隼(はやぶさ)という町名は、鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。
江戸時代、このあたりには、播磨明石藩松平家や、三河田原藩三宅家などの武家屋敷や、火消役屋敷がありました。田原藩の家老となり、画家・思想家としても名高い渡辺華山も、この地に生まれ、生涯の大部分を過ごしました。
元禄年間(一六八八〜一七〇四)、麹町通りに面した町屋裏の武家地(現・麹町一丁目5番地および7番地)は町人地となり、麹町隼町と呼ばれていました。それが、明治五年(一八七二)、麹町一丁目に含まれることになったため、南側の武家地だったこの一帯に、由緒ある「隼町」という町名が付けられることになったのです。
明治以降、町内には陸軍の施設であった教育総監部、東京衛戌(えいじゅ)病院、航空本部などが立ち並び、隼町は軍と関係の深い土地になりました。
そんな隼町に、昭和四十一年(一九六六)、日本の伝統芸能の保存と振興のために国立劇場が開場しました。同四十七年(一九七二)、その隣に最高裁判所が建ち、また同五十四年(一九七九)には、国立劇場敷内に国立演芸場が開場しました。国立劇場および演芸場は、歌舞伎・文楽や落語・講談などの伝統芸能の公開、調査研究を目的とした施設です。
こうして戦後の隼町は、日本の司法と伝統文化にかかわる町として生まれ変わったのです。
隼町の現況 平成十七年十一月一日現在
世帯数三七〇世帯、人口四七四人(男子三七八人 女子九六人) 、
会社及び事務所数約一〇〇社
隼町の人口が増えたのは警察の家族と独身の二十階建ての宿泊施設ができたからです。半蔵門会館も建て直されてグランドアーク半蔵門ホテルとなりました。
長らく町会長をされていた湯藤会長(連合町会長兼務)が平成十七年一月に亡くなられた後は奥田英雄氏が六代目の町会長に就任されました。
小さな町会ではありますが役員それぞれ役割を分担して隼町会の伝統である融和、団結に励み町会員の住み易さに貢献できるように町会の自治に邁進して参ります。(筆者・古村和夫)