7代 |
新井 巌 | : 平成10年〜 |
6代 |
荻生 誠 | : 平成5年〜10年 |
5代 |
加藤 鉄郎 | : 平成3年〜5年 |
4代 |
渡部 栄一 | : 昭和62年〜平成3年 |
3代 |
池田 一 | : 昭和43年〜62年 |
2代 |
佐藤 嘉三郎 | : 昭和35年〜43年* |
初代 |
佐藤 隆三 | : 昭和23年〜35年 六親会* |
※連合町会創立30周年誌による就退任年 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
徳川家康は、江戸に居を定めた時からこの界隈に直轄の武士団である大番衆を住まわせ、その六番組の屋敷があるあたりを六番丁と呼んでいた。現在の番町小学校が建っている場所には、定火消の役屋敷や上野小幡藩の上屋敷があり、四谷門寄りの広い敷地には尾張藩付家老の成瀬隼人正の上屋敷、一番地にはペリー来訪時に応接した町奉行・井戸覚弘の屋敷などがあった。明治以降、町名は下六番町となり、昭和十三年(一九三八)より現行の「六番町」になる。
明治から昭和にかけては、数多くの文化人たちや高級官僚の住む住宅地として発展し、島崎藤村、泉鏡花、島木赤彦、有島武郎、里見ク、水上瀧太郎、菊池寛、直木三十五、内田百閧ネどの文学者たちをはじめ、画家の有島生馬、藤田嗣治あるいは歌舞伎俳優の初世中村吉右衛門、初世市川猿翁、二世中村又五郎、三世市川猿之助、長唄の吉住慈恭などといった人たちも六番町の住人であった。また、日本の近代的女性を育んだ「明治女学校」、日本の歌壇の中心的存在であった「アララギ出版所」、菊池寛が創立した「文藝春秋社」もあり、「白樺」派の誕生にかかわった有島邸や若い作家たちが集った鏡花宅など、まさに六番町から日本の近代が開花したといっても過言ではない。
現在、六番町は区立番町小学校(幼稚園)や私立雙葉学園(幼・小・中・高)の他に複数の専修学校などを擁する、区内でも屈指の文教地区であり、いくつかの有名企業も区域内で営業している。
町会組織としては、大正十二年の関東大震災後に各地域での自警団といった役割を担う町内会が結成される。六番町では、鎌倉で罹災して六番町の実家に戻ってきたばかりの有島生馬氏を代表とした「下六町会」が発足する。
戦後はGHQの命令により町会組織は解散させられ、名前として町会が復活するのは昭和二十六年ごろからであるが、六番町の場合は昭和二十三年には、すでに町内会として「六親会」が発足。会長として有島生馬氏の弟であった佐藤隆三氏が就任している。昭和三十一年二月に番町出張所地区連合町会が発足し、初代連合町会長には六番町の「六親会」二代目会長であった佐藤嘉三郎氏が就任している(〜昭和三十八年まで会長)。
その後の昭和三十三年四月に、六親会が六番町町会に改名された。(これをもって「六番町町会」発足としている)三代目会長の池田一氏は「六番町町会のあゆみ」(連合町会三十周年誌)で「昭和二十九年以降に、町会に改組し、これを記念に子供御輿と山車太鼓を新調した」としている。
町会の活動としては、新年会、ニューイヤー・コンサート観賞、ふれあい広場、定期総会、バス旅行、クリスマス・ミニコンサートなどが定期的に行なわれ、日枝神社例大祭、あるいは広報誌「六番町物語」を発行するなど、六番町ならではのユニークな活動を活発に行なっている。近年は新たなマンション建設などにより新しい住民も増加しているが、その方々の地域コミュニティへの積極的な参加が期待される。