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五番町町会

歴代町会長

町会長 横山 義文
町会長 横山 義文
第5代 町会長 横山 義文 平成14年〜
5代
横山 義文 : 平成14年〜
4代
久保 金彌 : 昭和61年〜平成14年
3代
横山 福市 : 昭和55年〜61年
2代
岩谷 誠 : 昭和50年〜55年
初代
室橋 民衛 : 昭和30年〜50年
     
     
     
     
     

山王祭の五番町お神酒所
山王祭の五番町お神酒所
五番町揃いの半てんでお神楽を担ぐ子供たち
五番町揃いの半てんでお神楽を担ぐ子供たち

町会の歩み

<連合町会創立50周年記念誌より転載> 

 ※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。

五番町の町名は昭和十三年八月に行われた区画整理事業で名称変更され、約七十年続いています。遡って、明治の世となるまでは武家地として、土手三番町と俗称され、明治二年から五年にかけて正式に町名が付けられたときの土手三番町と表六番町の一部が今の五番町となりました。
 もっと古く、武家地時代をみると、五番町には三十三家の旗本が居住しており(俚俗江戸世絵巻による)、平成十七年一月の調査では、三五九世帯となっていますので、当時の屋敷の広さが偲ばれます。この三十三家についての職は定かではありませんが、明治以降は、男爵三井八郎右衛門、男爵中郷門経隆、子爵千種有梁といった人達の邸宅があったとの記録があり、武家地の中に医師、検校などが入り交じっていたという伝統は、今日まで続いています。
 五番町の広さは八万六千四百u(約二万六千百三十六坪)あり、中央に新坂、東側に帯坂(切通坂)、西側に三年坂の三坂があります。帯坂は「番町皿屋敷」お菊にかかわりのあった坂といわれていますが確証がなく、各地にあるお菊伝説から無理につけたというのが現在の定説です。また切通坂の名は、市ヶ谷から表六番町通り(現二七通り)に通ずる坂道として、江戸城総廊定成時(寛永十三年、一六三六年)につくられ、名づけられたといわれています。三年坂は、三念寺という寺地があって三念寺坂が正しいというのが定説になっています。新坂はその名のとおり明治四十四年発行の「東京市麹町区全図」には、記載されていますが、それ以前の図にはなく、明治の終わり頃作られた道と思われます。市ヶ谷御門は明治四年に撤去され、その姿を留めていませんが、江戸城外堀跡は国の史跡に指定され、桜の名所としての外堀公園も身近な公園として大切に保護されています。
 千代田区の人口は昭和三十六年から減少傾向が現れていますが、五番町は国勢調査レベルで考えると、昭和六十年をピークに緩やかに減少していましたが平成十七年には微増に転じており、これはマンション建設が行われたことによるものと見られ、現在十棟の都市型共同住宅があります。
 また平成十三年の統計調査によると、事業所は三一七あり、うちサービス業が一一五と飛出しており、次の卸売、小売業、飲食店の五十七の二倍もあり、昭和五十六年の統計調査事業者数一四六から、飛躍的に増加しており、事務所も過去にマンション居住タイプであったものが、事務所仕様に変貌を遂げ、すべて事務所となっているところもあり、就業者も平成十三年は六九〇〇名となり、昭和五十六年の二八二三名のこれも倍以上に膨らんでいます。
 町会としての発足は、正式には昭和三十年一月、周囲の各町で町会が発足し、わが町でもと室橋民衛氏を会長に結成されました。発足当時は、子供達を立派に育てたいという若い母親達の強い気持ちから、ラジオ体操やレクリエーションに力を入れ、また日枝神社の例祭ではテントがけのお神酒所を作り、タルみこしを担いで子供達を楽しませていました。しかし二十年ほど前に、お神酒所を構えても参加者が少ないという理由から、中断を余儀なくされておりましたが、平成十六年に町会の活性化を目的に、お神酒所の設営が再開され、地域住民の減少のために少なくなってしまった担ぎ手を、近隣町会の合同行事という形で協力し合って復活させています。