永田町一丁目町会 | ||
6代 |
八橋 定 | : 平成17年〜20年 |
5代 |
伊藤 友久 | : 平成12年〜17年 |
4代 |
樋口 宗雄 | : 昭和54年〜平成12年 |
3代 |
樋口 秀康 | : 昭和40年頃〜54年 |
三年町町会 | ||
2代 |
平元 敏雄 | : 昭和39年頃〜40年 |
初代 |
柴田 武治 | : 昭和30年頃〜39年頃 |
<連合町会創立50周年記念誌より転載>
※記載内容は記念誌発行時(平成18年3月)のものです。
「永田町一丁目町会」は日本の中心にある町会と自負しています。
国会議事堂、内閣府、衆議院第二議員会館、国会図書館、また自由民主党本部、民主党本部など国の中枢を担う機関が集中しています。そしてその情報を発信する記者クラブもこの町会内にあります。
かつて三年町と呼ばれた永田町一丁目。その名の由来は、六本木通りの南、財務省と文部科学省の間の急坂「三年坂」によるといわれています。なんでも、ここで転ぶと三年以内に死ぬという俗説があったとのことです。「加藤の千畳敷」といわれた加藤清正邸は、彦根井伊藩の上屋敷となり、明治以降は、陸軍省、参謀本部に姿を替え、今は尾崎行雄の功績をたたえた憲政記念館になっています。井伊直弼が暗殺された桜田門外の変、また明治維新の立て役者として新政府の大蔵・内務卿を歴任し、紀尾井坂下で暗殺された大久保利通も、三年町に邸宅を構えていました。
この度、連合町会から町会の「あゆみと沿革」を提出して欲しいとの依頼を受けましたが、ここ数十年間特に変わったことといえば、十五年ほど前から世代が代わり相続などに依る転出者が多く、急激に住人が減ったことです。
少し遡りますが、この町が大きく変わりましたのは、東京オリンピック(一九六四年)が行われた頃、首都高速道路が開通し、その後に三年町(当時)の町会が道路によって分かれることになりました。
三年町は国会議事堂の南側から特許庁(外堀通り)までの極くわずかの地域でしたが、その中に新聞社(日刊農業)、魚屋、新聞販売店、弁理士事務所、外交官の官舎、そして住宅が三十軒ほどあり、その頃三年町に通じる道は営団地下鉄銀座線の虎ノ門駅から文部省と大蔵省の間の坂(三年坂)を登って来るか、都電の溜池で降り特許庁の脇の道からと、国会議事堂の南門前からの坂を下って来るしか道がありませんでした。
「三年町」の首都高速道路の国会議事堂寄りが「永田町一丁目」特許庁寄りが「霞が関三丁目」に編入されました。一九六七年(昭和四十二年)に永田町一丁目町会が発足した当時は旧三年町地区は二十数軒で旧永田町地区は数軒でした。
戦時中の永田町は「陸軍参謀本部」の代名詞となっていた地区で住宅はごくわずかでした。現在の永田町一丁目の町会員は二十数名で、その殆どは公務員宿舎の住人で、住宅は数軒です。
近くには商店街もなく買い物など多少の不便はありますが、地下鉄丸の内線の国会議事堂前駅」が一九五九年(昭和三十四年)開業以来交通の便も良くなりました。
幹線道路(六本木通り)沿いにありながら、昔と変わらず静かで、また治安も良く大変住み良く何時までも住み続けたい町です。
(筆者・伊藤友久)