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四番町町会

地理・地域・交通

千代田区の西部に位置する。地域北部は二七通りに接し、これを境に五番町・九段南にそれぞれ接する。地域東部は三番町に接する。地域南部は一番町に接する。地域西部は日本テレビ通りに接し、これを境に六番町に接する。

最寄駅
・東京メトロ有楽町線 市ヶ谷駅
・都営新宿線 市ヶ谷駅
 
・JR総武線 市ヶ谷駅
バ ス
・都バス(橋63)番町
道 路
 
・二七通り
 
地 域
・フランシスコザビエル像



四番町の由来

麹町一丁目 町名由来板

<由来板>

 ■設置年月日:平成16年3月30日

 ■所在地:四番町5

江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるため、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。

江戸時代のこの界隈(かいわい)は、武家屋敷が立ち並んでいました。安政(あんせい)五年(1858)の日米修好通商条約で、幕府側の代表のひとりであった井上信濃守清直(しなののかみきよなお)もこの町の住人でした。清直は、初代の外国奉行であり、条約締結に尽力しました。

明治時代になると、中央政庁に近く便利な場所だったために、華族(かぞく)や官吏(かんり)の邸宅地となりました。政治家の島田三郎(しまださぶろう)や、首相を務めた若槻礼次郎(わかつきれいじろう)の邸宅もありました。

また、町内には自由民権運動の指導者であった中江兆民(なかえちょうみん)が主宰(しゅさい)した仏蘭西(ふらんす)学舎(のちに仏学塾と改称)もあり、新時代を担(にな)う若者たちの活気で満ちあふれていました。

歌人の与謝野鉄幹(よさのてっかん)、晶子(あきこ)夫妻も、明治四十四年(1911)から大正四年(1915)にかけて、このあたりに住んでいました。鉄幹が発行した雑誌『明星(みょうじょう)』からは、北原白秋(きたはらはくしゅう)や石川啄木(いしかわたくぼく)ら数多くの詩人、歌人が輩出しています。

明治、大正、昭和、激しく揺れ動いた時代を鋭い視点で見つめた人々が、この四番町に集まっていたといえるでしょう。